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わたしが小学生のころ(1930年代)、学校の国語の時間といえば一にも二にも音読だった。先生に名を呼ばれた子が立ち上って、声を張り上げ、その文なり詩なりを読む。ちゃんと読めればそれでよし、先生は意味を聞くとか、内容を要約させるとか、そんな余計な質問は一切しなかった。だから国語の時間はたのしく、出来る子も出来ない子も、指名されると元気よく「ハイ」と答え、教科書を両手で前につっぱって思い入れたっぷりに音読した。 あれがとてもよかったと思う。わたしなどが日本語の文章に関心を持つにいたったそもそもの初めは、この小学校の音読にあったと言っていい。音読というのは文章なり詩なりのよさを味わう最適の方法だ。読んでいるうちに、言葉のひびき、調子、力強さ、張り、表現の面白さなどが自然と子供心にもわかってくる。自然とそれを記憶して、そらで唱え、文章を自分のものにする。人はこうやって自分のくにの言葉を愛するようになるのだ。 だからわたしは現在までつづく過去50年間の国語教育法に大反対なのである。いつか国語の教師用の教材を見て驚いたが、今は文を味わわせるどころか、ただもう意味を問い、解釈させない質問攻めに終始していて、これじゃとても言葉に対する愛は育てられないな、と思ったものであった。 亡き英文学者中野好夫先生は、「ことばの研究会」で、やはり昔は音読一本槍だったという話をされ、先生が子供のころ徳島の生れた街の路地は、午後になるとどの家からも子供たちの音読する大声がひびいてきたものだったと言い、だから今でもそれを覚えている「やりますか?」と言って、高山樗牛のずいぶん難しい一節を、 「…翠華揚々として西に向かえば、秋風到る所野に充てり、ああ、昨日は東関のもとに轡を並べし十万余騎、今日は雪海の波に…」と朗読してみせたものだった。 黙読ではダメ、質問攻めではダメ、国語教育は音読にかぎると、わたしはそのとき思いを新たにした。意味なんかは何度も音読していれば自然にわかってくるのだ。音読のよさを今の人は知らなければいけない。
作家 中野孝次
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