1. HOME > 
  2. エッセー&小論

エッセー&小論

「書評」の面白さ・魅力

文芸評論家・筑波大学大学院教授
黒古 一夫
(2006年12月発行 会報第110号より)

 仕事柄、本や論文、エッセイを書いたりする他に、新聞や雑誌に依頼されてこれまで年に十数冊の「書評」をしてきた。対象となる本は、小説や文学評論が主であるが、時には写真集や社会科学の本について書くこともある。「書評」が専門ではなく近代文学研究者と文芸評論家として仕事をしてきたのに、何にでも好奇心を持っていた若い頃は、年に20冊を超える本の「書評」をしたこともある。自分の本や論文を書くのが忙しかったにも拘わらず、合間に他人の書く本を読むことが面白くて仕方がなかったのである。今でもその頃のことが忘れられず、依頼されるとどんなに忙しくても「書評」の仕事は基本的に断らない。

 1冊読むのに、短いもので1日、長編でも4、5日、「書評」というのは大体2枚(800字)から長くて10枚ほどなので、執筆に要する時間は1日か2日あれば足りる。この間は、今取り組んでいる仕事から離れて、自分の「想像力」や「感性」を頼りに自分以外の人間が構築した世界を渉猟することになるのだが、それが堪らなく面白い。対象本が今まで知らなかった「もう一つの世界」や言葉の宇宙を開示してくれるからである。

 ところで、昨年(2005年)1年間に「書評」した本は、『本多秋五の文芸批評』(文芸理論研究会編 菁柿堂刊)、『モビィ・ドール』(熊谷達也 集英社刊)、『河岸忘日抄』(堀江敏幸 新潮社刊)、『哀歌』(曽野綾子 毎日新聞社刊)、『批評精神のかたち』(竹内栄美子 EDI刊)、『原爆と写真』(徳山喜雄 御茶の水書房刊)、『軍曹かく戦わず』(立松和平 アートン刊)、『さようなら、私の本よ!』(大江健三郎 講談社刊)、『近代文学の終り』(柄谷行人 インスクリプト刊)など全部で12冊、これらは一見すれば分かるように、傾向性も統一性もない。バラバラである。

 しかし、たぶん客観的に見ればいずれも「(黒古の)守備範囲」と考えられる本だと思われているのかも知れない。昨年は2冊評論集を書き下ろしたのだが、これらの本の「書評」に関わる時間は決して苦痛ではなかった。と言うより、これら12冊の中には当方から「書評」依頼を期待するようなものもあり、それが実現したときのワクワク感は何ものにも代え難かった。
 何故そのような気持ちになるのか。小さい頃から本を読むのが好きで、この年になるまでずっと本を読み続けてきたから、ということも考えられる。しかし、何故「読書」をするのかという原理との関係で「書評」を考えた場合、自分が今生きている世界とは違う「もう一つの世界」を知る、つまり自分以外の人の考えや感覚を知り、それと自分の考えや感覚をぶつけ合い、さらに現在とは異なる「よりよき世界」を模索するという批評行為にこそ、「書評」という仕事の面白さ=魅力があるからではないか、と思っている。

 ノーベル賞作家の大江健三郎の言葉に、「文学の役割とは――人間が歴史的な生きものである以上、当然に――過去と未来をふくみこんだ同時代と、そこに生きる人間のモデルをつくり出すことです。」(「戦後文学から新しい文化の理論を通過して」86年)というのがある。この考えが「書かれたもの=本」の全てに当てはまるとすれば、読者(批評家)は著者の創り出した「同時代を生きる人間のモデル」と自分のそれとが切り結んだ先に、新たな「よりよき生き方のモデル」を創り出すところに読書の意義を見出さなければならないのではないか。読書――当然そこには原理的な意味において「批評」が要請されるはずなのに、多くの読書論が読書の目的は「感動を得ること」などと言って、批評の重要性を等閑視している――が、著者(他者)と読者(自己)との「協同性・共生」を模索するところに成り立つと言われる所以である。「書評」が面白いのは、あるいはそれが魅力的なのは、まさに1冊の本(の内容)を巡って自在な批評が可能であり、そのことを基に「他者との協同・共生」が成立するからに他ならない。

著者紹介

文芸評論家・筑波大学大学院教授    黒古 一夫

バックナンバー

選書リストを見る

新規登録すると…

SLBAに参加登録(無料)していただくと、ホームページからもご注文が可能になります。

学校図書館様向け 新規登録

書店様向け 新規登録

ページトップへ

当ホームページ掲載の記事、写真、イラスト等の無断掲載を禁じます。