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エッセー&小論

種知としての活字

国語学者
金田一 秀穂
(2006年4月発行 会報第108号より)

 商売柄、本を読むことは、食事をすることと同じで、読まなければ明日の仕事に困るということが起きる。そういう暮らしがもう30年続いていて、その間、いろいろ本を読んだけれど、本当に本を読んで楽しんでいたのは、それ以前、20代前半までだったように思う。

 研究者になるということは小さい頃から決めていて、それは本を読むことがあまり苦ではなく、むしろ楽しいことだったからかも知れない。字を覚える以前から、本のカタチをしたものを見るのが好きで、図鑑やら地図やら写真集やらを楽しんでいた記憶がある。

 人並みに思春期を迎えた10代中盤から、毎日1冊は本を読んでいた。昔は本が安くて、しかも、かなりな古典が手軽に手に入ったのだ。岩波新書が150円、岩波文庫の星が一つ50円だったと思う。

 ある頃、大岡信に夢中になり、片端から読んでいて、それで読書について書かれたものを読んだ。1冊の本を選ぶとすれば何か、というアンケートに答えようとして苦労して、「それは今読んでいる本だ。」と答えようとしたというのだ。本というのは、次々と読んでいくものである。今読んでいる本は、その前に読んだ本の続きであり、次に読む本は、今読んでいる本の続きなのだ。本はそれぞれが、何らかの意味で、連続している。1冊の本は今まで読んだ全ての本であり、だから、強いて選べば、今読んでいる本ということになる。そういう趣旨のことが書いてあった。

 私の本の読み方は、あまり系統立っていなくて、端から見たら、たぶんめちゃくちゃに近いのだが、私にとっては、実は連続していて、ある本を読んでいると、次に読みたい本が自然と出来てくるのだ。そうして繋がっている。大岡信先生ほどではないけれど、大変納得させられた。

 で、そのような生活は大学卒業後も続いた。毎日、昼間パチンコへ行き、換金して本屋で本を買い、家に帰って明け方まで読み、そして寝るという暮らしを繰り返し、2年間すごした。今から考えると、夢のような生活である。人とも会わず、他の場所にも出掛けず、アルバイトもせず、そうやって暮らした。今で言うニートである。本の中だけで暮らしていた。
 その数年後、連続幼女殺害事件が起きて、犯人の暮らしていた部屋が公開された。寝床があって、その三方を天井までビデオの壁が積み上がっていた。あれは私の居た場所と同じだった。彼と私の違いは、ビデオではなく、本だったこと。こどもを殺害しなかったこと。この2点だけである。それ以外は変わらない。多分彼は、とても心地よい生活をあの場所で送っていたに違いない。

 オタクということばがそろそろ流行りだした頃であり、私は完全な本オタクだった。人と会うより、話しをするより、本を読むのが楽しかった。人は邪魔だった。

 しかし、本の中だけで暮らしているのが、だんだん物足りなくなっていたとも思う。現実に触れることの楽しみも、すこしずつだが分かってきていた。ブッキッシュ、ということばを知ったのも、本の中だった。本ばかり読んで、本の中だけで考えようとする。現実を見ない。実在する世界を見ない。身の回りの世の中のほうが、実はずっと面白いということに、少しずつ気づき始めていた。きっかけは分からない。しかし、確かに外の世界は面白かった。

 外国人に日本語を教え始め、モノとしての日本語について考え始め、厳然とある日本以外の国の存在に納得させられた。それは本の世界とは違う、ことばにならない世界だった。現実は面白かった。

 活字の世界への招待を書くつもりで、活字より現実が楽しいと言うことを書いてしまっては、みもふたもないのだが、しかし、事実なのだから仕方がない。ただ、事実を面白いと言えるのは、活字の世界を通しているからだということも言えてしまうから、ことは面倒である。

 何も知らずに見ていても、世の中は見えてこない。知っているだけでは、世の中を納得できない。活字の世界でさまざまなことを知っていれば、世の中が明らかに違って見えてくる。あの乱読の時代は、今の私にとって、とても貴重な財産になっている。現実に触れていて、何かの拍子に、昔読んで得た知識が蘇り、その現実を冷静に観察することが出来る。

 種知ということばが仏教にあるらしい。知識として知っているけれど、ちゃんとは理解できていないことである。本を読むことで、無数の種知をうることが出来る。現実に触れて初めてその種知は芽を出し花開き実を結ぶ。

 活字は種知の宝庫である。現実はそれを花開かせる畑である。種知がなければ草も生えない。種知を集めること。構わず集めること。そういうことが人間には必要なのだ。

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国語学者    金田一 秀穂

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