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エッセー&小論

書物がなぜホンか皆で考え深めよう

作家
むの たけじ
2003年11月発行 会報第101号より

 言葉・書物をめぐる世相へのわが思い、それが主題です。前提として少青年期の経験を素描する。

 1915年、東北の農村に生まれた。農家のほとんどが借金苦にあえぎ、子らは教科書以外の書物は手にできなかった。そのとき或る寺の住職(土田善靜の名を私は忘れない)が青少年の修養会を作り、数百冊の書物を備えつけて自由に読ませた。会の名は東光会でしたが、書物に飢えていた子らはまさに日の出をみた思いでした。そこで『出家とその弟子』を読んだときのドキドキは88歳のいまの胸にもあざやかだ。

 17歳で旧制の中学から東京外国語学校(今の東京外国語大学)へ進んだが、校舎から歩いて十分そこそこの所が神保町でした。そこの古本屋街は、いま思い返せば貧乏学生にとって1つの大図書館でしたな。そこで苦労して探して入手したもの、買えなくて立ち読みを繰り返したものが一生を方向づける思想の糧となった。

 1936年に21歳で新聞記者になったが、そこでも書物が待っていた。職場の先輩たちは、「よく書きたいなら、よく読め」と折りあるごとに言った。記者たちの服のポケットは両方ともふくらんでいた。一方には原稿用紙、他方にはいつも文庫本がはいっていた。安い給料の半分も書物代に当てる記者たちがいた。むろん私もそれに加わった。

 さて、日本の敗戦時に私は東京の新聞街を去った。戦時中の新聞のありようを反省してのことでした。そして1948年から東北の農村地帯でタブロイド判の週刊紙を自営し始めた。そのとき「言葉を言うにせよ書くにせよ全体重を込める。」と自分に言いきかせ、若い仲間たちにもすすめた。カネにエンのない小新聞社では、経営者が原稿を書くだけでなく、活字をひろって、紙面の大組みの作業もやった。楽しかった。鉛の活字の指先に伝わる重さが心地よかった。「活字は活きている字だな、字を活かすことでもあるな」などとつぶやいた。文章を重んじる思いが肉体化しておりました。

 それだけに1960年代以降の時流に、私は全身で反発を覚えた。世間が繁栄ぶし、豊かぶしを合唱しはじめたとき、私は『ボロを旗として』という農村報告(1966年9月、番町書房刊)を世に送った。それ所得倍増だ、高度成長だ、奇跡の復興だと自賛した陶酔の正体は、中身の空虚なあぶく=バブルでしたが、決して忘れてならないことは、その自滅の成り行きが言葉を軽んじる風潮と2人3脚を組んでいた事実です。

 それは嫌な思い出だから、だからこそ思い出さねばなるまい。「消費は美徳だ、使い捨ては増産の拍車だ、満足は遊びから」とはしゃいだとき、若者たちの物言いに奇妙な省略や変形が始まった。植民地化を思わせるカタカナやアルファベットが横行しはじめた。そして「日本人は本を読まなくなった、活字離れだ、本が売れない」という嘆きが決まり文句になった。人間をして人間たらしめる「自立と自律」という根元のモラルがくずれたのではありませんか。しかし、「絶望がホントなら希望もホントだ」という哲学は常に確固としている。

 結びを言う。日本人が書物を本と呼び始めたのはいつからであるかは知らぬが、いま現実に誰もがごく自然にホンと言うのは、なぜか。辞典で確かめると、本という文字には「ねもと、おこり、はじめ、したぢ、みなもと、本性・・・・」と26個の意味がある。それらは書物のイメージと重なっていないか。人間生活の根本を耕すからホンではないか。社会生活の基本をゆびさすからホンではないか。ホンにかかわるすべての職業人が、いまここでホンの本質を皆で考え深めることを祈願する。

著者紹介

作家    むの たけじ
1915年秋田県生れ。東京外語学校(現・東京外語大学)卒業後、新聞社勤務(記者)を経て、秋田でたいまつ新聞社を設立。主幹として健筆をふるっている。著作に『詞集・たいまつ』シリーズ、『踏まれ石の返書』『ボロを旗として』など。

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