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エッセー&小論

文字を愛しむ

字游工房社長
鳥海 修
(2005年6月発行 会報第106号より)
 5センチ四方の大きさに筆と墨を使って文字を描く。ふつう仮名は起筆にあたる部分から書き出し、終筆で終わる。転折部分は適切か、線の強弱は自然か、他の文字との整合性は取れているかなどに気を使いながら作る。気に入らない線や、はみ出した線は白のポスターカラーで修整する。ある程度、完成したらスキャナーで読み込み、パソコン上で画像に忠実にアウトライン化する。それを大小さまざまな大きさで出力して検査をし、不具合があればパソコン上で修整を加える。これを数回繰り返して電子的な活字の1字ができる。日本語を組むために必要な文字は、一般的に1万字もあるので1つの書体を作るのには大変な時間と労力がかかる。

 私が書体作りに目覚めたのは、大学2年のときである。授業の一環で毎日新聞社に見学にいったのがきっかけだった。そこで印刷用の活字を1字ずつ人の手によって作っている現場を目の当たりにして驚いた。新聞に印刷されるあのおびただしい文字がまさか人の手によって作られているなどとは思いもよらなかった。私にはそれまで活字そのものを意識したことがなく、敢えていえば、土を掘ると土器のように出てくるくらいに思っていたかもしれない。いつも目にしながら、その存在を感じさせない文字を作る。このことが私にとってとても崇高に思えたのだ。そして当時デザイン部長であった小塚昌彦さんの「日本人にとって文字は水であり米である」という言葉にトドメをさされた。山形県の鳥海山の麓の庄内地方のおいしい水と米で育った私にとって、この「水と米」は殺し文句となった。以来26年間、ひたすら文字を作り続け、数えてみれば弊社で作った文字だけで30万字を越えている。

 その存在を感じさせない読みやすい文字は水や空気に例えられる。そうした書体を実現するのはとても難しく、これまで文字の作り方を多くの人に教わったが、教えられて分かるものではない。習字をしたり、古い活字の真似をしたり、町の看板や古文書などを見ながら、文字について日々考え作ってみる。こうした積み重ねが徐々に体に染みつき、自分なりの普遍的な文字のイメージが形作られる。ある人は70歳にならないとホントの文字は作れないというが、最近そうかも知れないと思うようになった。文字は人なりというように、自分の生きてきた経験の全てがそこに反映されるように思える。自分と文字は一体であり、生きている限り進化して行くように思えるのだ。
 かつて書体は印刷専用であり一部の専門家のためにあった。しかしパソコンが一般家庭に入ったとたん、誰もがパソコンから出てくる電子化された書体を手にした。電子化によって文字の用途は印刷に限らず携帯電話、インターネットやメールにおける表示文字、電車などの電光掲示板、テレビのテロップ、カーナビなど大きく広がった。

 ヨーロッパでは本をデザインするときに最も重視するのが、その本にあった書体を選ぶことだというが、日本ではどうか。多くは読めれば良いというような乱暴な扱いになっていないだろうか。文字は声をあらわし、文字の連なりは言葉をあらわす。言葉の乱れは文字の乱れに通じる。広告の文字の使い方でその商品や会社の格が分かるし、もっといえば日本人の民度がわかるというものだ。文字はどの時代でも「おいしい水や空気」であってほしいと願う。文字はコミュニケーションのための部品の1つに過ぎないが、もっとも基本的な部品である。是非、是非、愛しみ育んでもらいたい。

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字游工房社長    鳥海 修

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