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本を読むことのおもしろさを自覚するようになったのは、中学生のとき、学校の帰りにじぶんで街の本屋さんに寄って、本を眺めることをときどき繰りかえすようになってからだった。 わたしの中学校は、街の中心街をはさんで家とは反対側の、大きな川の畔にあって、毎日の登下校のときは、街の中心となる商店街の道を通ってゆく。そのころ街で中学生が自由に出たり入ったりできるところは、まず本屋だった。学校から家までの道筋には五軒もの本屋があり、しかもそのうちの二軒は、その街の背骨ともいうべき大きな書店だった。 わたしが中学生だったのは昭和二十年代の終わりの三年、一九五〇年代半ばまでの、この国の戦争の時代が敗戦に終わった後の時代で、社会はまだまだ貧しかったが、しかし、本の世界はちがっていた。今ふりかえっても、昭和二十年代の終わりごろというのは、総じて紙は粗末で、装丁も造本もいたって簡素だったにもかかわらず、それでも本がゆたかなものとしてあった、そして本が戦後の初心というものをそなえていた、そういう稀少な時代だったと思う。 街の本屋に入り浸りになったのは、そこには本があったからだ。本はそのころはまだけっして安価なものでなかった。本がもっとも身近に感じられる場所は街の本屋だけだったけれども、本屋にある本のほとんどは、中学生の少年にとっては買うためのものではなく、本屋にゆくたびに手にとっては、なんどもじっと見るためのものだった。 いまでも当時の五軒の本屋の店のたたずまいや店の棚の様子を、まだ昨日のように克明に思いだせる。本を読むことのおもしろさを中学生のわたしに自覚させたのは、そのときに本屋で目にした本、手にした本、しかしそのときには読まなかった本、読むことのなかった本だった。読まなかった本、読むことのなかった本は、少年のわたしのうちに、あとあとまで読書の端緒となる、知的渇き、知的好奇心をのこしたからだ。 中学生の少年の記憶にのこっている読まなかった本を、わたしはそれからも記憶をたどって見つけては読んできた。それでも未だしなのである。中学生の少年の知的渇き、知的好奇心をぜんぶ充たすには、人生の時間は短すぎるのかもしれない。
詩人 長田 弘
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