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エッセー&小論

考古学の楽しさ

サイバー大学 学長
吉村 作治
(2009年9月発行 会報第118号より)
 私がエジプト考古学の世界に入ったきっかけは、小学生のときに「ツタンカーメン王のひみつ」という本を読んだことだ。当時運動神経が鈍く、放課後の運動場でのソフトボールの仲間に入れてもらえず、図書室へ行ったことがきっかけであった。初め、図書室ではどの本を読んでいいのかわからず、司書の先生に本の選択についてアドバイスをお願いした。「そうね。伝記をお読みなさい。伝記は成功した人物の人生が書いてあるので、どうしたら人生に成功するかが読んでわかるのよ。それに、人には人生は一度しかないけど、伝記を読めば何十もの人生がわかり、その中で気に入った人生があったら、それを真似するのもいいかもしれないわよ」と親切に教えてくださった。それから、私は図書室に行くのが楽しみとなり、毎日のように色々な人の人生を知っていった。その中で一番気に入ったのが、ツタンカーメン王という若くして亡くなったファラオの墓をエジプトで発見した、イギリスのエジプト考古学者ハワード・カーターという人の伝記だった。カーターは小学校しか出ていないのに、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学のエジプト考古学専攻の教授が存在を否定していた、今から三四〇〇年前のファラオの墓を見つけてしまったのである。この日から、私はエジプト・フリークとなり、わき目もふらず五十年以上もエジプト考古学の道をまっしぐらに歩んできた。もちろん、当時はエジプト史に関する本は全くなく、百科事典、美術事典などからエジプトの項を抜き書きして基礎知識を蓄えた。縁は不思議だ。

  考えてみれば、考古学とは過去の人々の生活や人生を知り、それを未来に生かす学問なのに、今の考古学者は、懐古趣味的な人が少なくないような気がする。過去のことをなぜ追っているのかという観点が抜けているのだ。

  私は、考古学者とは刑事に似ていると思っている。というのは、発掘し、色々なものを発見するが、それで終わってはだめなのだ。それら出土品は、言ってみれば殺人現場に残されている証拠品のようなものだ。そこから刑事は犯人を捜すのだが、私たち考古学者は歴史の真実を見つけ出すのだ。だから、事実や現実だけを並べ立ててもだめで、そこでは類似のものや記録(リファレンスという)、または同じような発掘の記録、文献、研究者をくまなく探して、論理を組み立てなければならない。まるで、犯人がいて犯罪があって、それを読者が頭から読みながら犯人当てをする推理小説のようなものだ。しかし、考古学にはめったに答えはない。答えはあるのではなく、探し出すのだ。そのためには、かなり広い分野の知識がないと、時間を多く費やしてしまって結局何も結論が得られないことになる。手にした出土遺物とか建物跡をどう解釈するのかも、結論を見つけ出すことに大きく関わってくる。それには、知識の裏付けのある直感が大切だ。それと、経験が大きくものを言うのも、刑事の仕事に似ている。刑事は、殺人現場に百回も二百回も行かないと、真犯人の見当がつかないといわれるが、考古学者も、現場に最低でも百回は行かないと、皆目見当がつかない。

  私も、初期の発掘調査で外国隊のベテラン考古学者に遺跡の観方を教わったが、そのとき、この人はどうしてこの瓦礫の山からこんなことが解るのかが解らなかった。しかしそれから十年、遺跡が解るだけでなく、そこから何が出てくるかの予測まで立てられるようになった。経験のなせる業だ。しかし、現場経験だけで物事はわからない。現場経験が人間の身体の骨格であるとすれば、知識は血や肉である。これがないと、ただ目に見えているものしかわからない。「色は、赤、青、黄、白…」と説明する観光ガイドになってしまう。こう言うと、考古学者って大変な仕事だと思う方がいるかもしれないが、どんなに苦労が多かろうと困難があろうと、自分が楽しいと思っていれば何てことはない。すなわち、学問は「楽問」であるとわかることが大切なのだ。

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サイバー大学 学長    吉村 作治

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