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エッセー&小論

学校図書館の可能性に望みをかける

財団法人東京子ども図書館 理事長
松岡享子
(2009年4月発行 会報第117号より)
 わたしは、子どものころ、学校図書館というものを知りませんでした。今、わたしが各地で見学するような学校図書館が自分たちの学校にもあったら、どんなに幸せだったでしょう。きっと毎日入りびたって、本の世界の中でほうけていたにちがいありません。わたしの小学校時代は、戦中と戦後の”非常時“でした。とくに戦後通った郊外の小学校は、市内の家を戦災で失った子どもと、疎開から引き上げてきた子どもとであふれかえり、一クラスに六十人くらいがつめこまれていました。しかも、それが午前と午後に分かれた二部授業という状況でした。

  そのあと十年余りたって、アメリカの公共図書館で児童図書館員として働くことになったわたしは、再び小学校に足を踏み入れました。学校訪問が、仕事のひとつだったからです。わたしが担当する学校は、公私立合わせて八校ありました。その全クラスを訪ねて、お話をしたり、本を読んだりして、図書館で作ったブックリストを配り、子どもたちに図書館へ来るように誘うのがわたしの役目でした。

  校門をくぐると、なつかしい匂いがします。小学校というものは、世界中どこでも同じ匂いがするものなのかと思いながら教室にはいりますと、こちらは、机があっちに三つ、こっちに四つと散らばっていて、日本の教室とは様変わりです。カトリックの学校だけが、日本と同様、黒板に向かって列を作っていました。

  こんなにして、学校を訪ねて歩きましたのに、ふしぎなことに、学校図書館をひとつも見ませんでした。あったのか、なかったのか。そもそも、公立図書館の図書館員が学校に行くのは、地域の学校図書館が弱体だからと聞いたようにも思いますが、これはわたしの働いていた市の、その当時の状況だったのでしょう。たしかに、こと子どもの読書となると、公立図書館の児童室の動きのほうが数段活発で、地元の新聞などにも取りあげられることが多かったと記憶しています。

  わたしの感じでは、公立図書館の児童図書館員は、同じ子どもにサービスしていながら、どこか学校図書館員より、生き生きしていて、柔軟で、たのしそう、という印象がありました。これは、学校図書館は、一義的には学習のための読書、従ってどの子にもある強制力をもって課せられる読書をすすめるのに対し、公共図書館はたのしみのための読書、自発的な読書を追求する、ということからきているように思われました。そして、何かにつけてフォーマルな(公的で型にはまった)ことをきらい、インフォーマルな(形式ばらない)ことをよしとするアメリカの教養人の間では、たしかに、後者の読書により高い価値を認めるという空気がありました。こうした空気の中で、わたしも、学校図書館や、学校図書館員に対して、知らず知らずのうちに、ある種の偏見(?)を抱くようになっていたのかもしれません。

  この偏見のため――というより実際には、時間とエネルギーに余裕がなかったために、わたしはこれまで、ほとんど学校図書館には関心をもたずにきました。ところが、ここへきて、おそまきながら学校図書館の動きに注目せざるを得なくなりました。それは、公立図書館や文庫へ来る子どもの数が激減して、子どもに届くためには学校に行くしかないということになったこと、また、子どもの側からいえば、学校図書館であれ公立図書館であれ、質のよいサービスを受けられさえすれば、それでよいのだという当たり前のことに気づいたこと、さらにいえば、ここへきて、学校図書館で働く、大勢の魅力的な人たち――創意工夫をこらして、たのしんで仕事をしている人たち――と知り合いになったことです。自発的にたのしんでする読書こそが身につくという、わたしの信念は変わりませんが、学校図書館でそれをすすめることができない理由はひとつもありません。事実、この人たちは、それを着々と実行しているのです。それにつけても、この人たちの献身、努力に比して、その処遇、待遇のあまりにも不当なこと! これをどうするかが、今後の大きな課題であると考えています。

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財団法人東京子ども図書館 理事長    松岡享子

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