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キリシタンの禁教によって、折角入ってきた西欧式印刷術は、日本に根づくことはありませんでしたが、実はもう一つ、印刷技術将来の別ルートがありました。
それは、「文禄・慶長の役」によるものです。李朝伝来の活字印刷術で、秀吉によって活字や関係資材がもたらされました。その一部は朝廷にも献上され、宮中では勅版(天皇によって出された書籍)が刷られたと推測されています。
この新しい開版事業の出現は、家康にも強いインパクトを与えたようです。好学の家康の過去には、幼少期以降、今川家で人質となっていた不遇時代がありましたが、そこは遠隔の地ながらも、京の文化を享受できた環境でもありました。後年の彼は、文教を奨励する政策を標榜して、その生涯の最後まで、開版を企てて刊行を続けたのでした。
慶長20年(1615)などは、5月が大阪夏の陣で、落城による秀頼、淀君らの最後をよそに、6月には銅活字を用いて『大蔵一覧集』を完成しています。翌年には『群書治要』の刊行があり、このときの銅活字は、回り回って、今はその一部が凸版印刷の所蔵となって現存しています。(写真)
しかし、朝鮮の印刷技術の延長とはいえ、一握りの人々によって試みられた活字印刷は、あまり普及しませんでした。その理由は、漢字とかなが交った文字数の多い日本語の文章にありました。この点が、基本的な文字数が少なくてすむ、西欧での印刷事業の状況とは大きく違うところです。
当時の印刷は、書物全体の版組みを終了してから刷るのではなく、あるとこまでを組んで印刷し、刷了後は活字を再使用するため解版して、つづく部分の版組みにかかります。以上を繰り返す印刷方式の「本づくり」では、再版が不可能で、結局、書物の印刷は以前からあった、再版にも対処し易い「整版」(一枚の板にページ全体の文字や絵を彫って作った版)による印刷が主流になって、明治期まで延々と続くことになります。
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