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エッセー&小論

些細なことこそ

児童文学者・翻訳家
清水 眞砂子
(2007年12月発行 会報第113号より)

 「旅は人の心を狭くする」とは十数年前ロンドンの地下鉄で見かけたブリティッシュ・テレコムの広告にあったことばである。一瞬おやと思ったが、考えてみれば、これはよくあること。以来、自戒のことばとしている。

 それでも、二〇〇七年夏の終り、スウェーデンの最も伝統文化の残るといわれているダーラーナ地方の友人宅に泊めてもらい、前回は見られなかった納屋の干草置場をしっかり見せてもらえたのはよかった。スウェーデン軍の現役の将校である友人は機械が好きだからというただそれだけの理由で軍隊に入った人だが、一方では森の中に巣をかけた鳥がひなをかえしたかどうかは親鳥の鳴き声でわかるといい、白樺の木々をわたる風の音で湖の氷の厚さがわかるという人でもある。旧家の五代目の当主である彼は私の好奇心を笑いながら、それでも大きな母家のさらに二倍はゆうにある納屋を案内、干草置場を見せてくれた。二階のそれは今はがらんとしていたが、トラクターが入るまでの馬の時代、長い冬に備えて、秋口、そこは干草でいっぱいになったという。そのにおいは今もかすかに残っていて、欧米の文学作品によく出てくる干草置場が今、ようやくつかめた、と私は思った。ここならさまざまな秘め事も行われたろう。

 干草置場に実際に立つかどうかは些細なことで、訳文の字面にはおそらく現れてはこないだろうが、こういう、日常のくらしの中のどうということのないことに、私はひっかかり、心許無さを覚えてしまう。

 三十年以上も前、初めてパスポートをとってメキシコへでかけたのだって、ティオティワカンのあのピラミッドの石段の勾配がどれぐらいかを直に体験してみたかったからだった。が、それもまた字面には出てこない。

 その旅の途中、ロサンゼルスの空港でだったか、トイレに入ろうとして、私は思わず手を打って叫びそうになった。そうか、これだったんだ! アメリカのトイレの戸は下が三十センチほどあいていて、靴や今でいうパンツのすそが外から見えるのだ。その頃翻訳を考えていた作品に、トイレに入った子どもがいじめっ子たちに見つかって外で待ち伏せされ、出てこられなくなる場面があって、中に誰が入っているかがどうしてわかるのか、理解できずにいたのだ。

 ところで、この夏の北欧の旅の途中、私は二十八年ぶりにひとりの、いや一匹の旧友に会うことができた。ハリネズミのオギーで、一九七九年あかね書房から出版された『オギーのぼうけん旅行』(アン・ローレンス作、拙訳、絶版)の主人公である。

 久しぶりに会ったオギーはノルウェイ南部スタバンゲルの町にひとりでいた。いや、家族がいたかもしれないが、とにかく私たちが出会ったとき、彼はひとりだった。オギーは夕闇せまる街はずれの道をホテルへと急いでいた私たちのほんの一メートルほど先を、とことこと横切って、草むらに消えた。夫も私も初めて見る本物のハリネズミだった。が、この懐しさはいったいなに? 薄暗がりにはっきりと見えたあの表情。あのからだの動かし方。あれはたしかにオギーだ。そう確信できるそのことに私は驚いていた。三十代の終り、オギーとの日々は楽しかった。私は彼とのつきあいに夢中になった。そして彼は私の一部になり、六十代半ばをすぎた今までずっと私の中で生き続けていてくれたのだ。オギーを草むらに見送ってから、私は傍らの夫にオギーとの出会いを話した。

 すぐれた文学はいつも一見どうということのない細部に支えられているから、翻訳する場合も、細部をあだやおろそかにはできない。というわけで、旅に出た私は気がつくといつも、名所旧跡より人々の日常のくらしの細部にばかり目をやっている。台所ではどんな道具がどう使われているか。階段の踊り場はどうなっているか。ベッドのしつらえ方も気になれば、靴の並べ方も気になる。セールの折の値段のつけ方だって面白い。もちろん垣根の結い方も、木々も草花も。そんな、どうということのない日常の細部に翻訳のとき、助けられている。

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児童文学者・翻訳家    清水 眞砂子

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