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エッセー&小論

柱の汚れ

作家
立松 和平
(2004年11月発行 会報第104号より)

 私の最初の図書館は、祖父の膝の上だった。私はそこでたくさんの本を読んでもらったのであった。

 母の弟、つまり私の叔父の家にいくと、仏壇の下の床柱に1箇所黒い染みがついている。祖父の髪油の跡なのである。祖父が亡くなって45年以上もたつのに、祖父の生身の痕跡が残っているのが不思議だ。

 私は祖父の長女の子で、初孫である。戦後間もなくに生を受けた私は、いわば物のない時代に育った。本がないかわりに知識欲が強く、新聞なども隅から隅までむさぼるように読んだ時代だったのだろう。

 私の故郷の宇都宮は空襲で街のほとんどが燃失し、母の生家も灰になった。戦争をどうにか生きのびた両親のもとで、私は生まれたのである。

 私が幼い頃、祖父は近所にあった製紙工場に勤めていた。私は母や祖母に手を引かれて製紙工場にいき、働く祖父に向かって大声で叫んだ。

「ジンテー」

 こう叫んだ声の感触が、私の喉のあたりに残っている。ジイジイとか呼ぼうとして、舌がまわらず、こう呼んだのであろう。私の声を聞いた祖父はにこにこして、塀のところにやってきた。そして、私に本を渡してくれた。古紙を原料とする製紙工場で、祖父はよさそうな本を抜き取っておいてくれたのだ。工場の他の人も、わずかなことであるので、見て見ぬふりをしていたのだろう。

 私はもらった本を大切に脇に抱え、祖父の家に持って帰る。祖父は他の本も持ってきてくれた。祖父は柱にもたれかかってあぐらをかき、脚の中に私を坐らせて、私の顔の前に開いた本を読んでくれた。祖父の声が頭の上から降ってくる。

 今から見れば粗悪な紙に、粗末な印刷をした絵本だったのだろう。だがもちろん、そんなことは問題ではない。本を読むというその行為が、今からは貴く思われる。読んでもらうほうも、読み聞かせるほうも、幸福な時間を共有したに違いない。

「父親の頭の跡だから、雑巾じゃ拭けないよ」

 先日家にいった時、叔父は柱の汚れを見ながらこういった。

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作家    立松 和平

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