1. HOME > 
  2. エッセー&小論

エッセー&小論

「近代中国における文化の再編集―魯迅の世界」

明治学院大学教授
川俣 優
(2004年6月発行 会報第103号より)

道なき道を歩む青年

 21世紀に入って、日露戦争の開戦から100年が過ぎた。100年が経過しても、地球上に戦争の絶えることはない。戦闘やテロルがくり返される無残な映像が、地球上の様々な地域から世界中に発信される。

 100年前にも、そうした戦場の無残な映像に胸を痛めた中国の若者がいた。1894年、東京から列車に乗り、医学を学ぶために仙台に向かった一人の中国人留学生。名前は周樹人、後に中国近代文学の扉を開いた作家の魯迅である。

 その青年周樹人は、仙台に着いた2年後には医学の道を棄てて、また東京に戻る。医学校の教室で見た日露戦争のスライドが、そのきっかけとなった。そこには、同胞のスパイが処刑されるのを取り囲み、呆けた様に見ている中国の民衆の姿が映し出された。その中国の民衆の虚ろな心を蘇生させるために、周樹人は新たな思想文化を学ばなければならないと考え直した。

 彼は東京へ戻ると、ドイツ語の勉強を続け、ヨーロッパ文化の知識に触れていく。作家となった魯迅は後年、"地上にもともと道はない"という言葉を作品「故郷」(1921)の末尾に書き記している。決まったコースを外れても、目の前に示される課題に精一杯応えることを、青年周樹人は自らの務めとしたわけである。

文化の再編集

 魯迅は子どもの頃から、身辺の生き物や事物につよい好奇の眼差しを向ける人であった。そして、集め回った事物を並べ直しては、大切に保存した。幼い魯迅は、清代の花木の栽培書であった『花鏡』をこよなく愛し、その知識を基に庭の鉢植えに名札を貼って大切にしていたというエピソードが残されている。

 日本での留学生活を終えた魯迅は故郷に戻り、教員生活を送るかたわら、故郷の人物や風土の資料をまとめた『会稽郡故書雑集』(1915)を編纂する。

 やがて、北京の教育部に招かれた魯迅は北京大学などで中国古典小説の講義を始めた。その講義は後に、『中国小説史略』(1923)にまとめ上げられる。留学中の東京では弟の周作人とともに、東欧諸国などの小説を翻訳してまとめた『域外小説集』(1899)も刊行した。魯迅は古今東西の文物、事象を収集しては編集し直す、優れてエディターシップに充ちた人であった。

絶えざる知の受信と発信

 魯迅のこうした周囲の人間と生き物や事物に対するつよい愛着とあくなき好奇の精神は、文学者として活躍を始めるとさらに遺憾なく発揮される。魯迅は、生前刊行した著書と匹敵するような分量の翻訳書を世に送った。海外の文化に対する関心の衰えることは、一時たりともなかった。世紀末の版画家ビアズレーの作品を愛し、新たなメディアとしての木版画の普及にも力を注いだ。アメリカ映画の新作にも関心を寄せ、映画女優阮玲玉の自殺という知らせには、すぐさま論評を寄せた。魯迅は上海の内山書店を通して、絶えず新たな書籍の購入も続けた。文芸誌『作家』や『翻訳』を刊行、援助し、困難な時代の中で若い作家たちの成長の支えとなった。

 1936年に魯迅が亡くなったとき、心血を注いだゴーゴリの『死せる魂』の翻訳が未完のまま残された。魯迅はこのように、生涯を通して新たな知の受信と発信を続けた人であった。

 若き周樹人が仙台の医学校へ向かってから、百年の時が過ぎた。今も私たちは、遠く離れた戦場から送られてくる無残な映像に心を痛める。インターネット上では、厖大な分量の文字情報と映像が瞬時に飛び交うようになった。

 その無限とも思える情報を自らの手で編集し直し、絶えず彼方の見えない閲覧者に向けて発信する作業を、私たちは怠ってはならない。魯迅のように、生涯の最後の時までひたむきに世界に向かって語りかけていきたいものである。

著者紹介

明治学院大学教授    川俣 優
1949年東京生まれ。東京都立大学大学院博士課程中退。黒竜江大学日本語科講師を経て、明治学院大学教授、ボランティアセンター長。共訳『資料世界プロレタリア文学運動』他。

バックナンバー

選書リストを見る

新規登録すると…

SLBAに参加登録(無料)していただくと、ホームページからもご注文が可能になります。

学校図書館様向け 新規登録

書店様向け 新規登録

ページトップへ

当ホームページ掲載の記事、写真、イラスト等の無断掲載を禁じます。